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TCA卒業生インタビュー

SPECIAL TALK SESSION

1998年卒業薄井大輔さん

株式会社ワントゥーテン
チーフプロデューサー

1998年TCA卒業。ポストプロダクション、雑誌編集プロダクション、Webプロダクションにてディレクター、プランナー、取締役などを経験し株式会社ワントゥーテンに入社。現在はチーフプロデューサーとしてプロジェクトに携わり、グッドデザイン賞、BtoB広告賞、AD STARS、Event MarketingAwardsなど数々の広告賞を受賞している。

薄井大輔

2007年卒業山中雄介さん

株式会社 米 代表取締役
プロデューサー・クリエイティブディレクター

数社にてグラフィックデザイナー、ディレクター、プランナーとして従事。2012年にデジタルクリエイティブを強みにしたAID-DCC Inc.に入社。デジタルを軸足にフィルム、プロモーションなどを含めたコミュニケーション領域にて 統合的なプロデュース/プランニング/ディレクションを担当。2019年6月に株式会社米を設立。カンヌライオンズ2015,2016年ゴールド受賞を含む5年連続受賞・入賞中、Adfest2017,2018年GRANDE、SPIKES ASIA金賞、ACC5年連続受賞、文化庁メディア芸術祭受賞、D&AD受賞など国内外の受賞歴多数。

山中雄介

1995年卒業やまざき たかゆきさん

株式会社pdc_designworks 代表
ハイパーデザイナー

TCA卒業後、Honda技術研究所デザイナーとして活躍。Ape、zoomer、GROMなど若者向けのヒット商品を数多く手がけた経験を活かし、2012年pdc_designworksを設立。幅広い視野と多様な趣味を活用し、カーデザインを軸とした工業デザインだけでなくファッション、コンサルタント、雑誌連載、教育など「人々を笑顔に」をテーマにした活動を行う。

やまざき たかゆき

人とのいい出会いがあれば
自分の可能性が広がって、目指す夢は変わっていく。

TCA時代、順位がつけられる企業課題は
すごく頑張った記憶があります。

皆さんのTCA時代の専攻コースを教えてください。

薄井私は、当時あった「映像クリエーターコース」です。

やまざき「カーデザインコース」の2輪専攻ですね。

山中私は「グラフィックデザインコース」でした。

学生生活は、どう過ごされていましたか?

薄井自分が入った「映像クリエーターコース」はまだ設立されたばかりで、9人しか学生がいなかったんです。なので「グラフィックデザインコース」などとの合同授業が多くありました。授業内容も決められたカリキュラム通りではなく、「みんなでどこか行こうぜ!」というノリの課外活動が多かった気がします。プライベートでは、校舎のすぐ近くにあったビリヤード場でよく遊んでましたね。

山中企業課題を頑張った記憶が、すごくあります。企業から出される課題には、順位がつけられたんです。自分は順位がつかないと、燃えないタイプだったので。毎回1位から3位には入ってましたよ(笑)。プレゼンもうまかったですし(笑)。

やまざき僕は、意外と真面目でしたよ(笑)。TCAの「カーデザインコース」は間違いなく業界ナンバーワンなのですが、絵では勝ち目がなかったのでコンセプトやプレゼンを頑張りました。プライベートでは、毎日大好きなバイクばっかりイジってましたね。校舎の裏にアパートを借りて、そこにバイクを2台置いてたんです。アパートには鍵をかけていなかったので、友達のたまり場になってましたが(笑)。

学生時代の、一番うれしかった思い出は?

やまざきホンダに就職が決まった瞬間ですね。ホンダは、学生たちを集めて1週間泊まり込みで就職試験を行うんですが、最初僕はその枠に入れなかったんですよ。そこで先生に無理に頼み込んで、試験に参加だけはさせてもらえることになって、毎日の課題にやりたい放題取り組んだら受かったんです!当時、金髪のオカッパだった僕が(笑)。

薄井就職の思い出で言うと、他のコースの学生たちは企業のインターンシップに続々と参加するんですが、自分はなかなかインターンの受け入れ先が決まらず、長い期間自宅待機が続きました。そして、卒業ギリギリになって大手映像制作会社へのインターンが決まったんです。卒業してからはその会社でアルバイトとして働くようになり、石垣島へ1週間ロケに行って帰ってきたら自分の保険証ができていて、知らないうちに社員になってました。あの保険証、どうやって作ったんだろう(笑)?

山中高校生の頃、親に「大学だけは出ろ」と言われていたのですが、推薦で行ける大学の芸術学部では、油絵から彫刻まで総合的に学ばなければならなかったんですよ。自分は目標から逆算して行動するタイプで、やりたい仕事がグラフィックデザインだったのでそれを専門に学べるTCAに入ったんです。そこで同じデザイナー志望の学生たちと切磋琢磨しながら順位を争った経験は、今振り返ると本当に楽しい思い出ですね。

学生時代に予想していた未来が
そのまま叶うことなんて、絶対にないんです。

学生時代に思い描いていた未来と現在は、ほぼ一致していますか?それとも、当時は今のようになるとはまったく想像していませんでした?

薄井今の姿は、全然想像していませんでした。私はCMプランナーになりたくて映像制作会社に入ったのですが、しばらくするとTVCMの仕事がクリエーティブ業界の花形ではない時代になったんです。そこからデジタルの分野に転身し、今は現実と非現実の間にあるコンテンツを制作しているのですが、そんな姿は当時は想像すらできませんでしたね。

やまざき僕はバイクが好きでホンダに入り、そこからバイクのデザインをずっとやってきたので、ある意味想像通りといえるかもしれません。ただ、学生時代に独立することは考えていなかった。独立してからタミヤの仕事などもするようになり、会長に気に入っていただいて、会うと手を振ってもらえる仲にまでなったのですが…当時はあのタミヤの会長に手を振ってもらえる自分になるとは思ってもいませんでした(笑)。

山中先ほど自分が「目標から逆算して行動するタイプ」と言いましたが、TCAに入った時は某大手広告代理店に就職すると決めていたんです。ところが、その会社に新卒で入ることは難しいということが、入学してから分かってしまった。なので、卒業後に制作プロダクションに入り、中途でその会社に転職することを狙ったのですが、数年後には興味がなくなってしまったんですね。代わりにデジタルのクリエーションに興味を持つようになってそちらの世界に移り、大手代理店ではできない企画とデザインワークをこれまで積み上げてきました。確かに学生時代に思い描いた自分の姿と今の現実は違いますが、時代に合わせて理想の未来へ着々と進んでいる実感はあります。

やまざき結局、学生時代に予想した未来なんて絶対に叶わないんですよね。予想よりすごくなることもあれば、予想に届かないこともある。ただ間違いなく言えるのは、働きだしてからの人との出会いがとても大事だということ。いい出会いがあれば自分の可能性は広がって、目指す夢が変わっていくものだから。

やまざきさんがデザインを手がけたZOOMER

デザイナーからディレクター、
そして現在はプロデューサーへ。

皆さんのキャリア形成について、詳しくお聞かせください。

薄井最初に入った映像制作会社の後に、編集プロダクションへ転職しました。当時その会社が紙媒体から電子媒体に仕事の幅を広げようとしていて、マルチメディア推進の担当として採用されたんです。ところがいざ入ってみると、「マルチメディア推進」という名目と現場の実態はかけ離れていて…。「これは違うな」と見切りをつけて、その頃プライベートで学んでいたWEBデザインやプログラミングのスキルを活かすために、WEBプロダクションへ移ったのが次のステップです。WEBプロダクションは2社経験したのですが、そこではデザイナーではなく、仕事を持ってきてデザインや予算を管理するディレクターとして働きました。それからさらにコミュニケーションプランニング等のノウハウも身につけて、ワントゥーテンのプロデューサーになったんです。

山中小規模なグラフィックデザイン事務所をいくつか経験した後、アマナインタラクティブに入り、デザイナー兼プランナーとして映像やWEB制作も手がけました。その次に移ったのが、大阪を拠点とするAID-DCCです。その頃はデジタルが本当にイキイキした時代になっていて、仕事に大きな予算もついて派手なことがやりやすい環境でしたね。そこでは営業から企画、デザインのクオリティや予算の管理とCDとしての役割も兼ねるようになりました。そして去年独立して、自分の会社を立ちあげたんです。

やまざき僕はホンダに18年いて部署は結構動いたんですが、毎日好きなだけバイクをイジることができたので楽しかったですよ。転機になったのは、25歳の頃に参加した「若者プロジェクト」ですね。そこでは、ヒットしたZOOMERをはじめ色々な企画をまとめて、実績を作ることができました。それから社長が直轄する新たな4輪を構想する部署に入り、「20年後のホンダの4輪はどうあるべきか?」といったテーマを考える仕事に3年間従事したんです。予算がある部署で、ロンドン、パリ、ニューヨークと多くの都市にも行くことができて、クリエーターとしても人間としてもすごく成長できた時期だったと思います。

将来のビジョンとしては、
われわれの業界のプロデューサーの価値を高めたい。

ピンチは、乗り越えてしまえば
ピンチではなく自分の肥やしになってくれる。

そんなやまざきさんが、独立されたきっかけは何だったのですか?

やまざきプライベートな話なのですが、40歳の頃婚約した相手の実家が長野で大きな事業を営んでいて、それを手伝うために会社を辞めたんです。ところがある事情で、婚約が破談になってしまった。だから「独立した」というより「独立せざるを得なかった」というのが実情ですね。それで銀行からお金を借りるために事業計画を出したら「担保はありますか?」と聞かれて、こちらはそれまで独立なんか考えたこともなかったから「担保って何ですか?」という状態ですよ(笑)。そんな困ってた時期に、以前遊んでいた人たちが「一緒に仕事する?」と声をかけてくれて。それから少しずつ仕事が増えていった感じですね。僕は相手を好きにならないと仕事ができないタイプなんですが、そんなスタンスでも人のつながりで実績を積み重ねることができて、今独立から8年目を迎えました。

他のお2人も、キャリアの中で「ピンチだ」と感じた時はありますか?

薄井所属していたWEBプロダクションが倒産した時ですかね。僕自身は、その後副社長が立ちあげた新しい会社に移れたので事なきを得たのですが、「会社って倒産するんだ」というのを目の当たりにしたのは少なからずショックでした。ただその経験があったからこそ、会社の業績に敏感になり、マネジメントに対する意識が高まったというのはあります。

山中僕は過去にあまり興味がないので、自分にピンチがあったかもすぐには思い出せないのですが…でも先ほど言った、新卒で目標としていた大手代理店に入れなかった経験も一つの挫折であり、逆境ですよね。しかしその逆境があったからこそ、大手がやらない企画をやろう、エリートたちが寝ている間に自分の腕を磨こうという意識でやってくることができた。大事なのは、薄井さんの話にもあったように、自分が逆境から何を得るかだと思います。

やまざきそう、ピンチって乗り越えてしまえば、ピンチではなく肥やしになるんですよね。

薄井さんが企画制作を手がけたENNICHI by 1→10

マネジメントの立場になって感じる、
自分が育てた人が成長することの喜び。

皆さんが今やられているお仕事の醍醐味を教えてください。

薄井私の立ち位置は、プレイヤーからマネジメントに移行しました。前の会社まではゴリゴリのプレイヤーで、自分の作るものにエクスタシーを感じていたのですが、今は部下や周りの人が成功することにそれを感じるようになりましたね。自分の育てた人が成長する姿に、大きな喜びがあります。

山中さっき御社の若いスタッフに「ワントゥーテンのいいところは?」と聞いたら、「若くても責任を持ってやらせてもらえることだ」と言ってましたよ!

薄井おお、それは良かった(笑)。

山中僕は会社を作ったばかりで、仕事を継続的にもらえること自体が普通ではない、とても有難いことだと感じています。このまま次の目標に向かってチャレンジしていきたい、スタッフも育てながら、プレイヤーとしても頑張っていきたいですね。

やまざき僕も年齢的に、人を育てる楽しさには共感できます。農機具メーカーのクライアントから「設計者を育ててほしい」とリクエストされた時はやりがいを感じましたし、TCAの自分の生徒が成長してくると「おおっ!」という感動がある(笑)。それと今の仕事では、大企業のホンダではなかなか味わえなかった、お客さまからダイレクトに喜びが返ってくる醍醐味があります。農機具メーカーのユーザーの家へリサーチに行ったら喜んでくれて「うちで採れた梨を食ってけ!」と言ってもらい、食べたらすごく美味いんですよ。「この美味い梨を作ってもらうために、自分はこの機械を作ったんだ」という達成感がこみあげてきて、嬉しかったですね。

将来、感度の高い人に向けたクルマを製作する
モビリティメーカーを作りたい。

では最後に、将来のビジョンをお聞かせいただけますか。

山中われわれの業界の、プロデューサーの価値を高めていきたいと考えています。B TO Cのエンターテイメント作品を創造する世界ではたくさんの有名プロデューサーがいますが、広告業界のプロデューサーは世の中に認知されていないと思うんですよ。この業界でプロデューサーといえばCMプロデューサーになるのですが、彼らの仕事は主に予算とスケジュールを管理することで、私の考えるプロデューサー像とは少し違うと考えています。プロジェクトの初期段階からクリエーターやアーティストと企画を詰めて、お金をひっぱり、プロデュース・ディレクションしていくことで、社会に認められ、子供から憧れられる職業にしていきたいですね。

薄井私は昔から「世の中に何かを残したい」という気持ちが強くあって、それは「作品」だったり「場所」だったり、その思いが変わることはないのですが、今は特に優れた「人」を育てて残したいと思うようになりました。中でも、地方に住む若い世代を育てたいんです。都市部にはクリエーターが育つチャンスが多くありますが、地方には優れた才能は多いのにチャンスが少ないんですね。だから、たとえば沖縄の若者を育てて「沖縄出身のクリエーターは優秀だ」という評判を作り、東京で稼いでもらうというようなシステムを実現できればいいなと思います。

山中さんがキャンペーンロゴとキービジュアルを手がけたNHK「みんなでエール」

やまざきビジョンは大きく2つあって、1つは自分のしゃべり好きの特徴を活かしてテレビの文化人枠に入りたいと考えています。もう1つは、自分でモビリティメーカーを作りたいなと。小規模でも、感度の高いニッチなターゲットに「それそれ!」と言ってもらえるようなクルマを製作する会社ですね。

山中それは面白いですね!僕に手伝えることがあれば、ぜひお声がけください。

やまざきいいですね。協力してもらえることになれば、楽しそうです。

この対談がきっかけとなって新しい仕事が実現したら、素晴らしいことですね!今日は皆さんお忙しいところ、ありがとうございました。

一同ありがとうございました!