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POWER TALK SESSION クリエイティブディレクター 篠塚正典 × ビジュアル・デベロプメント・アーティスト マット鈴木

POWER TALK SESSION クリエイティブディレクター 篠塚正典 × ビジュアル・デベロプメント・アーティスト マット鈴木

TCA SUPER CREATOR WORLD
MASANORI SHINOZUKA
MATT SUZUKI
篠塚正典 × マット鈴木
TCA SUPER CREATOR WORLD

POWER TALK SESSION 篠塚正典 × マット鈴木

スーパークリエーター科を監修するマット鈴木先生と篠塚正典TCA学校長。
会場に入りきれないほど多くの学生たちが詰めかけた、
2人のワールドクラスクリエーターによるトークセッションの模様をお届けします!

  • LAの名門

    アートセンターには、
    アドレナリンが溢れていた。

    ふだんTCAではモノの「創り方」を講義していますが、今日学んでほしいのは「生き方」です。選ばれたクリエーターであるお2人に色んな質問をぶつけて赤裸々にお答えいただきながら、皆さんがこれからクリエーター人生を生きていくうえでの貴重な気づきや発見を得てもらえればと思います。では早速最初の質問ですが、お2人の共通項はアートセンター・カレッジ・オブ・デザインを卒業されたことですよね?これはまさにTCA建学時に参考とされた、世界トップの産学連携教育を実践するLAの名門校なのですが、お二人はそこでどんな学生生活をお過ごしになったのでしょうか?

    マット鈴木(以下鈴木)デザイナーと一口に言ってももちろん色々な種類があって、私は工業デザイン。篠塚さんはグラフィックデザイン。われわれから見ると、グラフィックデザインは華やかなイメージがありましたね。女の子も多いし(笑)。当時の篠塚さんはトラッドファッションでキメていて、サスペンダーなんかしちゃってたり。家に遊びに行くと、プラスチックのナイフとフォーク、スプーンがコップに花びらみたいに入れてある。うわ~オシャレ!って思いましたよ(笑)。僕の部屋は汚かったからね(笑)。毎日しごかれて、この課題をこなさないと明日死んじゃうみたいな生活だったから。

    篠塚正典(以下篠塚)ハハハ、よく覚えてますね(笑)。グラフィックは、家でも課題ができるからまだ楽に見えたのかな?締め切り直前は、僕の家の中もひどいことになってましたよ。工業デザインは学校でしか作業できないですけど、華やかに見えたらしい僕らだって、土日も課題やってほぼ休みなし。本当に課題をやってるだけの時代でしたよね。

    鈴木それでも学校を辞めさせないアドレナリンって何だった?

    篠塚うーん、アートセンター自体に溢れているアドレナリン・・・熱気としか言えないよね。課題のプレゼン前は、工業デザインの教室はみんなゾンビみたいな死にそうな顔になってる(笑)。それがプレゼン当日になると、教室はきれいだし、みんなもピシッとスーツを着て準備していたギャップのある風景はハッキリ覚えています。

    鈴木あぁ、プレゼン前にトイレで気絶してて翌日発見されたりとかね(笑)。グラフィックの人たちは、プレゼンシートがちょっとでもヨレてたら不合格になったりして・・・とにかく厳しい時代でした。

    篠塚すべてがプロフェッショナルな学校でしたよね。

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  • 留学生活

    学生時代に彼女?
    いないよ!課題しかない(笑)。

    課題の量は、どのくらいあったんですか?

    鈴木どのくらいかな?・・・とにかく膨大な量(笑)。たとえばヤマハの製品のスケッチやモデリングなど、40個作れと言われれば40個作らなければならないし。

    篠塚1学期に1つか2つ、企業からもらってやる課題に全力で取り組んでいましたね。TCAと同じで、学年が上に行くほど課題も難しくなるんだよね。

    アルバイトはされてました?

    鈴木いや、してらんない。寝たい!2時間だけでも(笑)。

    彼女なんかは・・・?

    篠塚いないよ!課題しかない(笑)。

  • 留学の動機

    自分にも映画が作れると留学を即決。
    今考えると恐ろしいね(笑)。

    失礼しました(笑)。では次の質問で、お2人の青春時代はいい大学からいい会社に入って・・・というのが当たり前の頃だったと思うのですが、どんな気持ちで海外留学を決めたのですか?ある意味、アウトローな人生の始まりだったわけですよね?

    鈴木情けない話、高校生の頃は人生に対してきっちりした考え方はなかったんだよね。当時の趣味といえば、場末の映画館で250円くらいのB級映画をいつも見てて「これなら俺でも作れそう」と思ったり。そんな時にLAに住んでる姉の家へ遊びに行って、街にほれ込んだし、ハリウッド映画も作れると思った。今考えると本当に恐ろしい話なんだけどね(笑)。留学は、即決でしたよ。

    篠塚留学の前は僕は多摩美大で学んでいたのですが、4年の時の先生がアートセンターの卒業生で「あそこはコンセプトから教えてくれるよ」とアドバイスしてくれたのが大きかったですね。実は日本で就職がなかなか決まらなかったので、海外に逃げたい気持ちもあった。親には「デザイナーなんて稼げないでしょ!?」って反対されていてね。自分は人並み以上に稼げるデザイナーになれることを証明したい、世界を舞台に活躍したい、大きな実績を残したいという反発心から留学を決めました。でも当時は海外留学なんて本当に珍しくて、出発する日は同級生がみんな空港まで見送りに来てくれた。そんな時代でしたね。アートセンターに入ってからは「日本人の意地を見せてやろう!」という気持ちで頑張りました。

    アートセンターにも日本人留学生は少なかったですか?

    鈴木少なかったですね。通っている日本人はみんな顔見知りになるくらい。学生だけでなく、トヨタや日産のプロのデザイナーの方が短期留学で在籍されたりもしていました。

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  • プロデビュー

    ショックだった
    「We decided let you go」・・・。

    なるほど。ではお2人が、初めて自分のクリエーティブな仕事でお金を稼いだのはいつでしたか?

    鈴木デザインが生業になったのは、もちろんアートセンター卒業後です。イントロビジョンというハリウッドでは中堅の製作会社に入ったのですが、そこではラッキーなことに絵描きや図面起こしから始めて、映画製作のすべてを学ぶことができました。最初に携わった作品は、アカデミー賞も獲ったハリソン・フォードの「逃亡者」。ハリソン・フォードって、すごいクルマの停め方するんだよね。スタジオの駐車場のラインを無視して大胆に横に停まっていて、後から来た人は誰も駐車できない(笑)。

    篠塚アートセンターを卒業して就職活動を始めたんですが、当時のアメリカは不景気だったんですよね。何社も面接を繰り返し受けて落ち続けて・・・「これはダメかな?」と思った時に、パッケージデザインの会社に何とか受かることができた。入ってからは、パッケージでもシールだけとか裏面だけとか、地味な仕事をしていたんですが、不況だから基本毎日ヒマなんですよ(笑)。そんなある日、金曜日だったかな?会社に朝行ったら、CDの部屋に呼ばれて。いつもはドアを開けっぱなしの部屋だったんですが、その時はなぜか閉められて言われた言葉が「We decided let you go」。

    鈴木えーっ!?

    篠塚当時あったレイオフ制度を利用して、クビにされてしまった。その体験はもちろんショックだったし、怒りがこみあげましたよ。でも、それをエネルギーにしてランドーアソシエイツに面接に行ったら、たまたまデザイナーの枠が空いていて入ることができた。だから結果オーライなんだけどね(笑)。

    鈴木それはいいきっかけになって、よかったね!

    ランドーアソシエイツ。世界最大のブランディング会社ですね。TCAスーパークリエーター科では、その先生たちに学べますよ!ちなみにその頃の給料って、どのくらいだったのですか?

    鈴木まあ、ギリギリ生活できるくらいですね。

    篠塚今の1/6くらいかな(笑)。

  • 人生の分岐点

    デジタルの深く速い川を
    渡れない同僚が、いっぱいいた。

    では次に、お2人のキャリアの分岐点になった仕事について伺いたいと思います。

    篠塚自分はやはり、98年の長野オリンピックのエンブレムデザインですね。あれはアートセンターに留学して、外から日本を感じられたからこそできた仕事だった。そういう意味では、人生の第1の分岐点は、まず留学したことだろうね。そして卒業して現地で働いたのが第2の分岐点。アメリカのデザイン会社って温かいんですよ。学生が面接に行くと、たいてい社長が出てきてくれる。そして、自分のポートフォリオにアドバイスをくれてね。たとえ入社を断られても、温かい印象が残るんです。自分も「人間として、こうありたい」と感じたんですよね。それは、今でもそう思うな。学生だから、プロだからではなく、いいモノを作れば素直に評価してもらえますしね。

    鈴木僕にとっては、アナログからデジタルへの転換期が大きな分岐点でした。当時の同僚には、デジタルの深く速い川を渡れなかったやつがいっぱいいましたよ。今はLAで不動産屋とかやってるみたいだけど(笑)。その時に、ベテランクリエーターが仕切っていた従来の映画製作の世界で、若者に一気にチャンスが広がる逆転現象が起きた。TCAで学ぶ皆さんにも、ハリウッドへのチャンスは広がってますよ。

  • 教育方針

    誠心誠意、自分がいいと思うことを
    伝えていく。それしかない。

    お2人にとって、学生に「教える」という行為はどんな意味をもっていますか?

    鈴木いつも言ってることなんだけど、真っ白な紙に色をつけていく作業は責任重大だし、怖いといえば怖い。でも誠心誠意、自分がいいと思うことを伝えていくしかないですよね。それしかできない。

    篠塚僕は、先生をやってるって感覚はないんですよね。言ってみれば、先輩が後輩に技術や経験を伝えるような感じかな?「教えてやる」じゃ、伝わらないものがあるからね。アートセンターの先生たちもそう。目の前で絵を描いてくれたり、自分のテクニックを隠さずに教えてくれる。「キミこれ描いてもいいよ!僕はもっとすごいの描けるから」みたいな態度で(笑)。でも日本は、そうじゃなかった。それではデザイナーは育たない、日本のためにならないという想いから、講師の仕事を始めるようになった。僕はとにかく、デザイナーになりたい人を増やしたいんですよ。そして業界を盛りあげていきたい。だって、こんな面白い仕事は他にないもの!学生の皆さんも、ぜひ後輩にデザインの楽しさを伝えていってください。

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  • TCA学生へ

    卒業後は世界で
    好きなことをやってください。

    その素晴らしいアートセンターとTCAに共通点はありますか?

    鈴木雰囲気かな?和気あいあいとして、空気が楽しそう。TCAには、いいエネルギーが満ちてると思いますよ。あとアメリカの映画業界って、意外と人を育てる意識が薄いんですよ。だからハリウッドを目指すんだったら、産学連携教育で学生の時から実践的なスキルを身につける必要がある。そういう意味でも、TCAの環境はアートセンターと一緒で恵まれていると思いますね。

    篠塚まずアートセンターもTCAも、活躍するプロフェッショナルを育てるという点では共通してますよね。特徴的なのは、アートセンターには「アメリカ人を育てよう」という意識はないんですよ。つねに世界が視野に入っていて、来たい人は国を問わず誰でもウェルカム。そして卒業生は、世界を舞台に活躍することを目指す。TCAも今、確実にそうなってきています。「東京で日本人に教える」ではない。どこから留学してきてもいいし、卒業後は世界で好きなことをやってください、グローバルに活躍してください、というふうにね。それこそ、マットさんが今活躍しているニュージーランドでもいいし(笑)。

  • Q&A

    ありがとうございました!では、学生からの質問コーナーに移ります。お二人に聞いてみたいことがある人は、手を挙げてください。

    お2人がデザインの仕事をされるうえでの、気持ちのあり方を教えてください。Sさん

    鈴木僕はこの仕事が本当に好きで、仕事が多ければ多いほど、キツければキツいほど嬉しくなっちゃう。自分がMなんじゃないかと思うくらい(笑)。だから仕事が完成したと思っても、まだまだもっとカッコよくなるという気持ちが芽生えて、それ以上を求めるんだよね。プロデューサーから「これ以上は予算が・・・」と言われても「うるさいなっ!」って(笑)。言い方は悪いけど、人のお金を使わせてもらって遊んでるみたいな感覚だよね。

    篠塚間違いなく好きという気持ちが根底にあって、好きだからこそデザインの仕事をする。そこに大義名分を作るなら、「デザインは人を幸せにする」ということが言えるんじゃないかな。グラフィックも、映画も、プロダクトもすべて。そう思って、やってもらってもいい。

    鈴木なるほど。僕がディズニーにいた時の話で、自分の仕事は医療福祉のような世界で働く人たちと比べて社会の役に立っていないんじゃないかと思ったことがあって。そしたら、その医療福祉関係の人たちが「ディズニーが、どれだけ社会のためになっているか」を延々と語ってくれたんだよね。それを思い出しました。

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    デザインの仕事に取り組む際の考え方へのアドバイスをお願いします。Kさん

    篠塚自分の中に制限を設けずに、何でも聞いて、何にでも手を出してみること。いつも視野を360度に広げて、好き嫌いなしに躊躇せず未知の世界へ行ってみる。そこで何を見つけられるかは、自分次第だと思います。

    鈴木アートセンター時代に自分が何であんなに頑張れたかというと、先生や学生たちがみんなで前向きな雰囲気を作っていたからだと思うんだよね。「先週はあいつに負けたから、今週は俺が頑張る!」みたいな。そういう、みんなで作るチェーンリアクションも大事だと思います。学校では、失敗してもいいんだから。

    将来は人に喜ばれる作品を作れるクリエーターになりたいのですが、そのために何が必要ですか?Y.Tさん

    篠塚自分が納得いくまで、とことんやることだね。「ここまでできたから、もういいや」じゃなくて。課題にしても、アートセンターではみんなとことんやってくるから。完成に近づいた作品でも、自分でもっと良くなる部分を見つけ出してブラッシュアップする。毎回毎回自分が納得するまでやりきることの積み重ねが、結局は成長への早道なんだと思いますよ。

    鈴木自分が「デザインで人の役に立ちたい」なんて思うようになったのは、わりと最近の話でね。君たちの年代の頃は、とにかくカッコイイもの、人に「スゲー!」と言われるものにしか興味がなかった。自分の努力と作品のクオリティって、最初は正比例するものなんですよ。でもあるレベルにまでくると、100努力してもクオリティは1しか上がらないことがある。そこで多くの人がこの仕事をやめていくんだけど、そんな時にこそ一生懸命頑張れるかどうか。その差だと思うんですよね。そこさえ越えれば、次が楽になるから。「人の役に立つ」という話に戻れば、若い頃は「自分のカッコいい」だけを追求してみてもいいんじゃないかな?

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    お2人は、自分がもっとも作りたかった作品を、もう作ることができましたか?C.Tさん

    鈴木100%満足した作品は、まだないね。だからこそ、それが次への原動力になる。自分の作品を映画館で見ながら「うーん、あそこはもっとこうしたほうが良かったかな」って。そんな気持ちがなくなったら、そこでリタイアしてもいいのかもしれない。

    篠塚それがあるから、クリエーターは成長するんだよ。自分がやりたいことを仕事でやれない場合だってある。そんな時に、どうやって自分のやりたいことに近づけていけるか?クライアントが欲することと自分のやりたいことの両立を、あきらめずに追求していくことが何より大事だよね。

    鈴木よく分かる。僕らの仕事は「好き」だけのファインアートではないからね。たとえば監督に自分のアイデアを見せる時、やりたい案を真ん中に、やりたくない案を端っこに置いて、やりたい案がテイクされるよう誘導していく(笑)。そんなことも、この仕事をやるうえでの醍醐味ですよ。

  • 終わりに

    今日は長い時間本当にありがとうございました。最後に、お2人から学生たちへメッセージをお願いします。

    仲間同士のように、僕自身も学びたい。

    鈴木僕の授業では、上から目線で皆さんに教えようという気持ちは、さらさらありません。隣に座って、一緒に作業や問題解決をしていけたら最高だと思います。仲間同士のように、僕自身も学びたい。頑張りましょう!

    世界に出て活躍してほしい。

    篠塚みんなには、自分のやりたいことを持ち続けてほしい。そして、世界に出て活躍してほしいと思います。たとえ最初は言葉ができなくても。クリエーティブの仕事は、これからますますグローバルになりますからね。

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PROFILE

篠塚正典MASANORI SHINOZUKA

TCA学校長 /
クリエイティブディレクター

アメリカのアートセンター・カレッジ・オブ・デザインに学び、グラフィック/パッケージデザイン科を首席で卒業。1990年にランドーアソシエイツ・サンフランシスコ本社へ入社し、東京支社転勤後の1993年、長野冬季オリンピックのシンボルマークデザインを手がける。1995年に株式会社イデア クレントを設立。以来、国内外多くの企業のCI、VI、パッケージデザインを担当し、現在に至る。

マット鈴木MATT SUZUKI

名誉教育顧問 /
ビジュアル・デベロップメント・アーティスト

ウォルト・ディズニー社にCGアーティストとして勤務し、特殊ビジュアル効果部門でエミー賞を受賞。代表作は『アナと雪の女王』『ズートピア』『アバター』『ジャンパー』『チキンリトル』『ロビンソン一家』『逃亡者』『アトランティス失われた帝国』『コン・エアー』など。